天の仔  第14章 − 3回


 ――一年半前。菱呂が谷に沈んだ直後、見石は半狂乱で御山を下ろうとした。
 それを止めたのが八右智だった。
「無理だ。御山からどう下っても、行き止まりだ」
「知るかそんなことっ、お前が分からなくても俺が見つける!」
 見石は、未だどこか呆けている八右智の胸倉を掴んだ。
「死ぬな。殺されるな。真っ当に生き続けろ」
 願いではなく、脅しだった。
「お前らの命は菱呂が持って行ったんだ! あいつが無駄になるざまは許さねえ!」
 本当に殴られるかという寸前で、八右智はやっと頷いた。
「わかっ……た。絶対だ。それだけは、約束する」
 その言葉を最後に、見石は彼を放り投げ、御山を走った。
 憐れな者達の行く先も、悪党どもの末路も、その時は何の興味もなかった。
 友が命だけで救おうとした少女は、ずっと背中におぶっていた。彼女の為ですら無い。
 菱呂の為に、もう伊由古を良いようにはさせられなかった。
 御山を下れば谷の姿は途中で見えなくなり、行き止まりだと散々聞かされた木立が広がっていた。そこで冷静さを失うほど見石も愚かではなく、ひとまず元居た場所へ戻った。
 そこにはもう、誰の姿もなかった。
 里はちょっとした騒ぎになっていた。一陀羅がとんでもない早さで支渡を整え、何処かへ行ってしまったと言う。都に居る娘の元に行ったとかの話もあったが定かではない。
 見石はただ、二度と戻っては来ないだろう事だけを悟った。
 そして夜中になるのを待ち、なんとか人目を避けながら、伊由古という人形のような少女を家に匿うしかなかった。
 全てを知った摩耶女は「お疲れ様でございました」とねぎらうばかりだった――
「八右智と理島は里にすら戻らなかった。今どこでどうしているか、俺もわからん」
 辺りは夜になっていた。
 見石は木立の中で野宿の準備をしながら、話を続けている。
「どっこいあの八右智という男、少しは骨があったらしいな。里を出る前に置き文を残していたんだ。それもある意味で、里でもっとも安全な所に渡した」
 見石は、火を見ている菱呂の背をつついた。
「お前の親父さんに預けていたんだ」
「ぼ、僕の?」
「ああ。祭事家の醜聞は伏せられていたが、『侍人が湖霊に身を捧げるから、祀りは今代で止めてくれ』とな。あとは大騒ぎだ。里人はあいつが身なんか投げちゃいないって知らないがな」
「じゃあ……祀りは、どうなるの。十六年後は」
 見石は火に木の枝をくべると「さあな」、あっさり言った。
「霊女を得ようとしていた一陀羅と、止めようとした八右智と菱呂……作り物だが、そういう筋書きになっていった。実際、三役の全員がいなくなっちまったんだ。祀りの形を知る者が消えれば、今まで通りとはいかなくなる。だからと言ってあのくそ爺のぬかした通り、三百年は重いんだ。今すぐ何がどうこうなるわけじゃあ、ないだろう」
 希望を信じるのではなく、絶望を嘆くのでもなく、ただ事実だという物言いだった。
「お前が、霊女を救ったように。また何かが変わらないとは限らないだろう」
 彼は菱呂の隣に座り、火のあたたかさを身に受けた。
「俺は里を出たがな。もうあそこには居たくなかった」
「じゃあ君は今、どこにいるの」
「親父がずっと昔、戦の為に都へ出た時に、何泊かした家があったんだ。その縁を頼った。今はそこの里で世話になっている。良い人間のいる、良い場所だ」
 見石がなんとなく口を閉ざしたので、菱呂も先は尋ねられなかった。
 伊由古がどうなったのか、彼自身の家族がどうなったのか、知りたい事は山ほどあったが、見石が言外に「自分の目で確かめろ」と言っている。
 伊由古。
 この一年半で、彼女を忘れた日は一度もない。
 見石の口ぶりでは大事があったという風ではないが、それならそれで心配は尽きない。水を怖がったり、菱呂の「し」は一度も言えなかったり、そんな少女だったから。
 己は八右智のように、祀りを止めたいとまでは、やはり考えもしていなかった。
 ただ、この手を初めて求めてくれた伊由古に生きていて欲しかった。
 でも時が経って、今さら彼女の見つめる空などにはなれないのではないか。
 天の子だと、この瞳は空だと、斗々富貴は確かに言ってくれたけれど。
 ぼんやりしていた菱呂の頬に、
「ほら、夜は冷えるぞ。早くあたたまれ」
 見石が椀でつついてきた。
「わっ! ちょっと、お湯がかかったら危ないじゃないか」
「気にするな、まだ空だ」
 彼はあっけらかんとからかって、あたためているあつものをよそってくれた。

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