菱呂はただ、逃げるしかなかった。
白い衣を脱ぎ捨て、小屋を飛び出した。
道は分からない。三役の間から外へは、自力では行けない。ただ廊下を右から左に走り回り、小屋から大して離れてもいない何処とも分からない壁と壁の間で、力尽きて膝を折った。
この幾重にも張り巡らされた壁と塀の中で。
伊由古は誰かに犯されていた。
彼女の体に傷は無かった。理島は声こそ上げたが、その身に起きたことは受け入れていた。
だから――きっと、これが初めてではなく、何度も何度も。繰り返し。
伊由古は湖霊の嫁君である。白いものしか身に付けず、白い饅頭しか口にせず、言葉も文字すらも知らず、決して汚さぬよう、みだりに触れも話しかけてもいけない霊女のはずだ。
いつしか菱呂の体はかたかた震えていた。
汗にまみれているのに熱くて、その汗でまた体が冷えて、また冷や汗が流れて肌が熱くなって、暑さも寒さも回るばかりだった。
☆ ☆ ☆
気が付いたら菱呂は、祭事家の一室に寝かされていた。
肌がざわついたせいで胃の腑がむかつき、天井が右から左に揺れている。
「……あれ、見石」
何故か枕もとには見石と摩耶女が居た。
「畑にいたら、ここの家人がお前の家への道を尋ねてきたんだ。だから俺達が来た。俺はお前の友だからな」
見石は断固として答えた。
「大袈裟……だよ。平気だ。悪い食べ物に当たってしまっただけだよ」
「なにが平気なもんか、倒れていたくせに」
そこで戸が開いて、八右智が入って来た。若夫婦はすぐに居住まいを正して礼をする。
「ああ、そのままで結構。貴方がたに来て頂いて助かりました」
その侍人としての姿に、菱呂の背を戦慄が駆け上がった。
そうだ――あの口付けだって、伊由古の日々で行っているものとして、相手を「誰か」と間違えたのだとしたら。
何より小屋に近付ける男が居たとしたら――
菱呂は途端に目がくらみ、顔を枕に埋めて咳き込んだ。
「菱呂くん、しっかりして」
摩耶女が菱呂の背をさすり、
「我慢することはない。辛かったら戻してしまいなさい」
八右智が菱呂の肩に手を添えようとした。
八右智と摩耶女、二人の腕が交差し、触れ合おうとした。
――霊女さまを犯していたのは……この、侍人じゃないのか。
菱呂は飛び起き、二人の腕をそれぞれ反対側に跳ねのけた。
「おい、どうした」
途端にふらついた背を、見石が後から支えてくれた。
ただ心配のみを注いでくれる友の目に、菱呂は己が情けなくなっていった。
己は今、何を考えていたか。八右智が摩耶女に触れてはいけないと思っていなかったか。彼女と、祝福されて生まれてくるその子に何かが「伝染する」と。
事実がどこにあろうと、こんなことを考える己が最も汚い。