「見石なのっ?」
枝と一緒に警戒を放り投げ、その者を助け起こした。
首から上に巻き付けていた布をはぎ取ってやると、やはり見石の顔がそこにあった。多少、苦しそうではあるが。
「お前はさすがだよ、菱呂」
見石は腹をさすった。
そこは棒くらべの試合で、菱呂がきめた部位とほぼ重なる。
「こんな時間に何故、外にいたんだ」
「聞きたいのはこっちだよ。君がどうして祭事家になんて」
彼は口を閉ざした。表情が途端に暗く沈んでいく。僅かな灯りが顔に深い影をつくり、そのまま影と重なってしまいそうになる。
「まさ、か……君の娘さんを、見に来たっていうのっ?」
答えはない。怒りも驚きも、否定もしなかった。
「そんな、いけない! 霊女さまは、三役以外の者と会ってはいけないんだ。いくら親だからってそれを破ったら、祭事家だって黙っちゃいないよ」
「だから忍んで来てるんじゃないか!」
「来てる……って、今日は初めて……じゃ、ないの」
見石の顔は怒っていた。それは菱呂に向けられたものではなく、見ている様子でもなく、水たまりに映った己と対峙していた。
「俺だってこの里で生きる者だ、知ってるさ。霊女さまは大事なお方だ、御山を怒らせてはいけないんだ。誰一人も悪くない、仕方がないんだって……!」
見石は土を握った大きな拳を、また土に叩き付けた。
「それでも俺は、あの子をもっと、もっとずっと……抱いていたかったんだ!」
菱呂の喉がひり付いた。加佐名の舌が這ったところを根にして、喉が縛られ声が塞ぐ。
仕方ない――その通りだ。でも、斗々富貴を、見石のこの影を、泣き腫らした摩耶女を、隅に追いやることなどできるのか。
仕方ないと耐えて斗々富貴は、三十二年が経って尚、泣いたのに。
「ごめんよ見石、ごめん……僕にはできない。君も摩耶女さんも、誰も慰められない。なんにもできないんだ……!」
恐れに足元をすくわれ、菱呂はその場から駆け出していた。逃げていた。足だけが何処へとも宛てもなく、それしかなく芸もなく木立を進んだ。
この月明かりにかすんで吹き飛んでしまう砂粒より頼りない身一つ、何もできない。
ふいに、爪先が小石にぶつかった。
小さな小さなクズの、それでも水の粒がきらめいたような音が、腰から鳴った。
菱呂は「あるもの」を思い出し、上衣をまくった。袴の紐にくくりつけてあった箱を手に取った。
――たとえ僕は、寄り添えなくても。
菱呂は夜にも冴える水色の瞳を見開くと、もう大股に土を踏みしめた。
祭事家の後ろに位置する斜面を登り、傾斜のゆるやかな谷へと下った。
谷から正面には、長く広く丘が開けている。丘は平らになったり、また急にもなりながら、少しずつ高みへ坂を伸ばしていく。
この丘の先、里の真北の丘陵には、里人の眠る墓があるのだ。
すぐにあちこち、筍と間違えそうな石が、なだらかな起伏の土に植わり始めた。
石は、死者の名を刻んだ墓標である。
一つの墓標に家の者全ての名を刻んでゆくから、墓標の数はあまり増えない。家族は同じ場所に重ねて埋葬される。
火和湖を抱く御山は、墓がある丘陵の西隣の山だ。墓がここにあるのは、御山に見守られて眠るゆえだ。むき出しの山肌に石くれが散らばる御山は、麓から直に登るには辛いから、墓が集まるこの丘陵から行く。火和湖は御山の裏側にあり、里からは見えない。
菱呂はまず家の墓標へ行き、父祖へひざまずいた。
父に話せば「余計な真似を」と殴られるが、思い付いた時には手を合わせに来ている。この墓の場所を教えてくれたのも、他人である見石の父だった。
「おじいさま、おばあさま。父と僕をどうか見守って下さい」
もし加佐名の話が真実であったら、己はこの祖父母とも血が繋がっていない。
しかし菱呂の知る限り、父はあの父で、祖父母はここに眠っている。
優しかった覚えのない、幼心にも感じていた、この目と髪を嫌っていた祖父母であっても。
菱呂は膝を伸ばし、立ち上がった。
向かうは由馬の墓である。
へその緒の箱を手に入れた訳は、ここにあったのかもしれないとすら思う。
――この箱を伊由古の母親、由馬の墓に入れてやろう。