菱呂は畑に出た。
随分久しぶりの気がして、耕す手にも力が入った。
日を背にすれば、御山は真正面に臨んでいる。灰色の岩肌は、昼の陽が当たってもなお厳しい。
後ろのあぜ道を通った男が菱呂を指差した。
「おい、見ろよ……こいつの赤ん坊、やけにあっさり死んだらしいな」
桶を担いだもう一人があくびを返す。
「こいつのじゃないだろ、あの親父だろ」
「ばあか、やめとけって。棒でのされっぞ」
「へへっ、いつも言い返さねえ意気地なしだ。怖かねえ。おおかた、赤ん坊の目まで気持ち悪ぃ水色だったから、あの親父にびびってくびったんだろーよ」
菱呂が思わず振り返ると、二人の男は一瞥をくれた後で足早に去って行った。
もし彼らの口にしたように、妹を終わらせたと思われることが当たり前だとしたら――
菱呂は山を仰いだ。空を仰いだ。
この里は十六年、いつだってこの身を生かしてくれたが、いつだって懸命にならざるを得なかった。
『あんたは、天の子だよ』。
天。天は里を包むけれど、里ではない。
いつまでも道を向いていると、かごを背負った摩耶女が歩いて来た。
「摩耶女さん。もうお身体はいいのですか」
「ええ。いつまでも休んでいるわけにもいかないもの」
摩耶女は微笑みかけたが、まだ弱々しい。
「その……ごめんなさいね、このあいだは。あの人も気が昂っていたし、私も……」
「いいえ、いいんです」
応えがやけにあっさりとしたので、摩耶女は少し首をかしげた。
「そうだ。摩耶女さんに今度、山菜の採れる所を教えますね。見落としがちですが、豊かな所ですよ。いえ、まだ山は辛いですよね、じゃあ地図を書きましょう」
「あのっ、ちょっと待って菱呂くん」
「どうしましたか」
「なんだか、いつもと……顔つきが、違う気がするのよ」
菱呂は首を傾げて、己の頬を触った。いつもと変わらない肌があるだけだ。
「それに、そんな場所を教えてしまったら、菱呂くんのお父様がお怒りになるわ」
「大丈夫です。摩耶女さんさえ秘密にしてくれたら、父にはわかりません」
摩耶女はいよいよ恐れすらにじませた。摩耶女の知る菱呂は、父のことをそんな風に口にできる男ではない。
「菱呂くん……どうしてさっきから、笑っているの」
言われて初めて、菱呂は自分が笑っていると知った。
確かに、どうしてだろうという気もする。楽しいことや愉快なことがあったのではない。
「風が気持ちいいから、でしょうか」
本当にそれしか思いつかなかった。
この風も、里を癒すために吹く。風が撫でる川も、里を潤すために流れる。川が肥やす土も、里を食べさせるためにふくれる。
御山から下りる風が、この背を押している。
「僕は、里の者ではなかったのです」
今、何て言ったのかと摩耶女が尋ね返す前に、菱呂は片手を上げた。
「どうぞ、畑へ。僕と一緒に居ては、摩耶女さんも良く言われません」
摩耶女は息を呑み、道を別れるしかなかった。
☆ ☆ ☆