父の演説を背中で遠ざけ、八右智はひっそりと屋敷に戻った。
回廊を抜け、入り組んだ廊下を進み、三役の間の鍵を開けて鍵を閉めて、小屋に通じる道を進んだ。
控えの間には灯りも無く、理島が小さく座っていた。
「父上はなんとしても、俺を一人で山に行かさないらしい」
八右智はほんのり灯りをともした。
細い火種は二人の僅かな呼気で右へ左へ行ったり来たりしながら、それでも何処にも収まることはなく、ひそやかに弱まりながら照っている。
正面には伊由古のものだった居室がある。
こんな騒動がなければ、既に新たな霊女と侍女が入る頃だ。
「父上にとれば、俺は罪人だ。これ以上、何一つも任せたくないのだ。仕方ない」
彼は口にして、口を抑えた。理島も彼を見た。
ずっと、祈りと呪いのように、「仕方ない」を唱え続けていた少年が居た。
「……あの方は、どうなるのでしょう」
「あの先は行き止まりだ」
八右智は平坦に言った。
「御山のふもとは水も恵みも、屋根もある。歩いていれば、いずれ下りになる。木々が深くなり、山がそびえた頃には上りに入る。ああ、これは次の山に踏み込んだな……と思った辺りで」
彼は真っ直ぐ前を指差した。
「御山が、見える。ただ御山の周りを回っていただけだったと知る」
火種がもう少しだけ震え、影が揺れた。
「里を出るのなら、里の中央の川か、御山の脇に流れる谷に落ちるしかない。俺もかつて散々探した。どうすれば里人に知られず御山から抜けられるか、探し尽くした。――この里はまるで牢の形そのものだ。里と父からは逃げられない」
理島の影が大きく動いた。
「八右智さま……っ」
二人の影が一つに重なり、人ではない形になった。
「わたくしを見捨てないでください……!」
彼女は八右智の胸にとりすがり、囁く声で叫んだ。
「死ぬために生まれました。怖いものなどありません。でも、あなた様と離れることだけは耐えられないのです。生きるも死ぬも、あなた様と共でなければ嫌です。そのためにわたくしは人になることを辞めました」
「はは、馬鹿なことを」
八右智は皮肉っぽく笑って、
「そうさせてしまったのは、俺じゃあないか……!」
出し抜けに理島を抱き締め、深い口づけを落とした。
吐息も舌も影も何もかも混ざり合っていつしか、火が消えていった。
影も消えた部屋で、八右智は濡れた唇に囁いた。理島のざらつく左の頬を撫でた。
「お前はお前が思っているより、人だよ。火和湖で水を嫌がった伊由古を助けようとした」
「わたくしは……ただ、あの子がきっと、とてもまぶしくて痛いだろうと」
「かわいそうだと言うんだ、それは。人が知っている言葉だ」
八右智は理島の額に己の額を当てて、笑った。口付けようというのではなく、ただ顔を触れさせて微笑んだ。泣いている理島を慰めることもなく、笑っていた。
空を宿した少年が見せつけた、ひどく懐かしい想いにさいなまれながら。
「教えてくれ、理島。お前の目で見出したものを、教えてくれ。俺は何をすればいい」
様々の光景がめやにのように八右智の瞼を重くし、理島の姿を最後に光を閉ざしてしまいたいと望んでいる。
「こうなると分かっていたから十六年、何もしなかった。もう何も思いつかないんだ」
「分かりません」
理島はすぐに、決め付け、悲しく、悔しげに、満足げに、優しく、辛く、答えた。
「わたくしはあなた様に教えて頂いたことの他は、何も知らないのです」