菱呂は夜を走った。
訳も分からずに走った。
何処かもわからず、何故かもわからず、走らなければどうなってしまうかわからなかったから走った。
母上は、母上は……ああ、だめだ。考えてはいけない。
母上は仕方がないだけだ。だって男の子でなければ、父は喜ばない。霊女になって、失くしても良いというほど……いいや、父さんだって、男手が欲しいのは仕方ないことなんだ。
仕方ない仕方ない仕方ない仕方ない仕方ない仕方ない仕方ない仕方ない――
『それ、あんたのくせかい?』
頭の中に斗々富貴の言葉が弾けた時、菱呂の足が止まった。
いつもと変わらぬ道は走れないもので、祭事家の近くまで来ていた。今夜は晴れで、月もふくらんでいるから、夜目の利く菱呂にはおぼろげに形が見える。
聞いた話では、父が戦いに赴いた西の方の者達は、おしなべて夜目が効いたらしい。生母がそうなら、息子も受け継いだ。菱呂の体は実にほとんどが母似で出来ている。
西の者達は少年でも、ここの大人に引けを取らない腕力があるという。それで特に大柄ではないそうだ。手脚も長いので長い得物も扱えるらしい。事実、菱呂の棒は長い方だし、痩せた体でひと回りも大きい見石をおぶることだって出来る。
里に嫌われた母の血が、里の男で最も尊ばれる防人にさせた。
塀の後方では、小さな灯りがちらついていた。灯りは前後左右を行ったり来たりし、怪しい動きをしている。火も不自然に小さく、堂々としていない。
――泥棒か?
全てを束の間忘れさせてくれる、使命に似たものを勝手に背負って、菱呂は塀に寄った。
その者は塀となっている木の隙間を探っている。幹に手を触れては、上を仰いでいる。
残り十歩弱に近づいた時、明かりがこちらを向いた。
相手は菱呂を知るや否や、大股で逃げ出した。
「待て!」
菱呂は長い上衣の裾をひるがえして追った。木立に入ると、敵もやる気か、灯りを放り投げ構えてきた。転がった灯りが辺りの土を照らし、その者の跳躍する影を映す。
――棒だ!
棒が振り下ろされる寸前、菱呂は木の無い左へ身をそらした。
同時に腕を地へ伸ばし、適度に太い枝を素早く拾う。長さは肩から腕の程度だが、扱えない長さではない。
短い枝を両手で回転させ、続いて降ろされた敵の棒を虚空にはじいた。
回る枝が弧を描き、盾となって、相手の棒を寄せ付けなかった。敵も上手いが、力に頼り過ぎる筋と、暗いせいか目標が上手く定まっていない。
敵の片足が、ぬかるんだむき出しの土に取られた。
菱呂は回している枝の先を、そのまま敵の棒にぶち当てた。
敵は棒から手こそ離さなかったが、大きく後ろにのけぞる。更に被り物をした顔の奥から声を出そうとする。
しかし無心でいた菱呂の耳には届かず、素早く枝を持ち直すのみ。左手で枝の中心を持ち、右手のひらを端に添える。
そして突き刺すように、敵の腹へ枝を押し込んだ。
相手は仰向けに倒れた。
菱呂はそれを確信して気が抜けて初めて、その姿に気が付いた。