天の仔  第1章 − 1回


 棒を振られた軌跡が跳ね上がった刹那、菱呂(ひしろ)は胸をそらした。
 菱呂はすぐさま相手の棒の筋を見切った。
 相手の策は、このまま頭上を叩いてくると見せかけ、胴を正面から突くことだろう。簡単に見破れたのは、相手の棒先が雷のようにいきり立っているからだ。この勢いを保ったまま振り降ろすことなどできない、突いてくるしかない。
 棒は、軽くはない。太い枝一本から切り出した、背の高さを超える得物である。にも関わらず、菱呂が手にした方の棒は、傍目には重さを感じさせない。
 上から迫っていた相手の棒が、読みどおり腹に狙いを変えた。
 菱呂は素早くかがみ、相手の懐に入り込んだ。
 後ろに残した左脚が弧を描き砂埃が舞う。
 相手の棒先が迷った隙に、菱呂は己の棒を一閃させた。棒は相手の膝の裏をすくい、たたらを踏ませた足から更なる砂が湧く。菱呂はそのむき出しになった腹の中央を突く。
「――勝負、あり! 菱呂!」
 見届け人の締めが響くと、辺りは歓声に包まれた。
 縄で囲った円陣の中で、菱呂はうずくまった相手の前に膝を突いた。菱呂の強張っていた顔は今、あどけない。丸く大きな目と白桃より控えめな色の唇は、少女にも見紛う。
「ごめんよ、痛くなかった? 怪我は?」
 心配より何ものでもない態度に、相手方の男――見石(みいし)はたまらず吹き出した。
「この、お人好しめ! どっちが勝ったと……いててっ」
「ご、ごめん。なるべく当たり所は外したつもりだったけど」
「……そいつは負けた俺への嫌みか」
 見石は笑いに苦いものを含ませてから、あえて一気呵成に立ち上がった。
「ほら、胸を張れよ。菱呂。こいつは里始まって以来の大事なんだ」
 彼は群衆に向けて、菱呂の手を高々と引き上げる。
「たった十六歳、髪もざんばらな成人したてのお前が、里で最も強い男だ。お前が火和湖防人(ひわこのまろうど)を勝ち取ったんだ」
 すると誰が拍子を取るでもなく、人々は腰を折り始めた。右膝を地に突き、左膝を立て、両手を前に掲げる。頭を三度垂れた後、肘を張って両手を合わせ、もう一度深く頭を下げる。老人からは、「火和湖(ひわこ)のお陰さまでございます」という祈りも聞こえる。
 彼等が両手の間から仰ぎ、正面にしているものは、灰色の山である。
 ――今から遠い昔。祖父の、そのまた祖父の曽祖父すら生まれていなかった頃。
 里のぐるりを包む山の一つが、火を噴いた。
 火は凄まじく、煮え岩が川となって里に迫った。煙に巻かれ、火の粉に打たれ、大勢が死んだ。木の屋根と土壁の家々は石の雨に壊され、畑には灰が降り積もった。
 御山(おやま)を怒らせてはならない。御山には人の意の及ばぬ御方(おんかた)がいらっしゃる。
 人々は御山に棲まうものを祀りに向かい、中腹に「それ」を見つけた。煮え岩の痕が生々しく、岩が突き出した辺りだと伝えられている。
 そこには今まで在った筈のない、湖が生まれていた。
 荒ぶる御方は、湖霊(これい)の姿でお出ましになったのだ。
 湖は幼い娘に見つけられた。彼女は湖が遣わした娘と称えられた。娘も里を律することを任と捉えた。贅沢を控え、争いを嫌えば、いつしか俗世を避けていった。白いもののみを身に付け、歌や食といった楽しみを悪として遠ざけた。遂に小屋にこもり、兄夫婦が世話をした。
 娘が十六歳となった次の満月の夜、里に女の赤ん坊が生まれた。
 娘は「湖霊さまの元に嫁ぎます」と言い残し、湖に身を投げた。
 あるいは、「わたくしの任は続けなければなりません」とも残したという。
 里人は娘の言葉を尊び、満月に生まれたその赤子を二代目の「娘」とした。一代目の「娘」の様をよく知っていた兄夫婦が世話を継ぎ、彼等の家は里で起こる祭事を取り仕切るようになった。
 そしてまた、二代目の「娘」が十六歳になった頃の満月に生まれた里の娘を、三代目の「娘」とし、二代目の「娘」を湖霊に嫁がせた。
 こうして湖霊の嫁である「娘」を繰り返し生み、嫁がせることが、里の「祀り」となった。
 全ては、湖霊の御怒りを呼ばぬために。
 後に火和湖と呼ばれる湖へ祀りが行われて以降、御山が里を襲うことはなかった。
 それから幾星霜。
 今、十六年ぶりの祀りに、菱呂が認められた時だった。
 ただ菱呂は、この棒術くらべに特別な感慨がなかった。
 他の男は防人(まろうど)の名誉欲しさで挑んだだろうが、彼自身は負ける機会がないまま、闘い、勝っただけだった。