天の仔  第6章 − 2回


 菱呂は溜息をつきつつ、伊由古の汗ばんだ頬に貼り付いた髪を分けてやった。
 すると伊由古がそろそろと手を伸ばして来た。
 また何かまずいことをしでかしたのか――菱呂は手を引っ込めかけたが、それより早く、伊由古が手を握って来た。
「ぁ……う」
 伊由古は歪んだ眉の下から、半分閉じられた瞼の奥から、その手の主を見た。
 菱呂の手に指を絡め、頭衣ごしに菱呂を見ていた。
「……伊由古、さま」
 恐れと共に菱呂は身動きが取れなくなった。
 いつもぼんやりしていた瞳が、己に向けられている。だらりと垂れていた指が、この手を求めている。誰を相手にしているかは分かっていなくとも、しかし、求めている。
 伊由古は今、すがっている。
 か弱く冷たく、けれど確かに体温のある指先が、手の甲に触れている。
 ――僕が、もし。一歩でも引いたら。
 頭衣で隠れた菱呂の頬を、いつしか幾すじもの涙が伝っていた。
 言葉を知らず、饅頭しか知らず、白しか知らず、空も草も花も知らない少女へ、泣いていた。
 ――違う。彼女は知ってる。痛みは、知ってる。
 痛みだけを重ね続けた十六年だったろう。そして間もなく、最後の最後に、生きものが味わう最も巨大な痛みと苦しみを味わいながら、その生を閉じる。
 昨日までなら「仕方ない」ことだった。
 でも己が全てを「仕方ない」といなし、誤魔化していたのだと知ってしまった、今日。
 たとえ霊女であるとしても。
 痛みを知っている伊由古は人だ。
 ――僕は、僕は、君を……
 侍女が戻ってくるより前に、菱呂は控えの間に辞していた。
「八右智さまにお薬の件お話いたしましたら、すぐにご用意させるそうです」
 理島は湯と革袋の水筒を替わりに持って来ていたが、菱呂は返事をしなかった。
 彼女はあの怪訝そうな表情で、どうしたのかという眼差しを向けて来る。気取られぬように涙を拭いながら、菱呂の胸は清々しい思いで満たされている。
 ――僕は、仕方ないって言い続けながら、心ではずっと「そう」思っていたんだ。
「菱呂さま。本当に、どうなさいましたか」
 寡黙を貫く菱呂を案じ、理島は出し抜けに前に回った。頭衣を外したばかりの菱呂は、真正面から涙を見られてしまったが、
「はい。僕はもう、大丈夫です」
 菱呂はいつにない、もしかしたら生まれて初めてかもしれない程の笑みを広げた。
 空が宿る瞳が照らしたのは、己の偽らざる心だった。
 と、理島は右目を大きくつぶった。
 右側の頬と眉と唇を、瞼を中心にして引きつらせながら、顔を両手で抑えてしまった。
 小刻みに呻き、腰を曲げて頭を下げてしまった。
「理島さん、どうしましたか」
 菱呂はうろたえ、肩を横から支えた。しかし彼女は、ちらっと菱呂を見やれば、また苦しげに頭を振ってしまう。
「平気ですっ、でも……お願いでございます。後ろにお下がりくださいませ」
 彼がその通り後ろに下がると、理島は首を大きく後ろにそらした。何度も繰り返し息を吸い、顔に当てた手を少しずつどかしてまばたきをしていた。
「菱呂さま。今、お顔が……濡れてはございませんか」
「え、えっと……水が、あの、筒に入れていた水を飲んで顔にかかりました」
 涙だとはさすがに言い出し難く、変な誤魔化しをしたが、理島は「やはり、そうでございましたか」と事実のみを受け取っていた。
「お顔はもう、乾いておりますか」
「はい。もう拭いました」
「……まことでございますね?」
 珍しく疑いを露わにし、まだ瞼を覆いながら、彼女はゆっくりと菱呂を振り向いた。
 そして本当に顔が塗れていないことが分かると、深々と頭を下げた。
「取り乱してしまい、まことに申し訳ございませんでした。お許しください」
「本当に大丈夫なんですか。もしかして、僕が何かしてしまいましたか」
「違います! 決して、決して菱呂さまのせいではございません」
 珍しくとても強く否定しながら、理島は自らの右目を軽く抑えた。
 まさに仕方ないという風に、菱呂を見つめた。
「少し、まぶしかっただけなのです」

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