天の仔  第10章 − 2回


 それでもいつしか時は過ぎ、洞穴の中に伸びる影が長くなってきた。菱呂は火を起こしやすい場所を探しに出た。穴の奥は家一軒ほど進んだ所で折れ曲がり、行き止まりだ。
 奥の壁に危険がないか確かめ、戻ろうとした時だった。
 土壁の一角、切り株くらいの大きさにえぐれた場所に、布袋が入っていた。
 菱呂は棒を持って来て、布袋の先端を突いてみた。中に入ったものが硬い音を鳴らしてきしんだが、大きな変化は無い。変な匂いや気配も無い。
 いつ、だれが、どうして、こんな所に物を置いたのか。この場所まで来るには御山を抜ける必要があるから、里の者とは考えにくい。
 ならば別の集落の者だ。
「……行けるんだ、そこに」
 光が差し込んだ気分になり、菱呂の胸がはしゃいだ。しかしぬか喜びもいけないから、中に入ったものを見据えなければいけない。
 菱呂はゆっくり包みを取り出した。布の結び目やくぼみにたまっていた砂が表面を伝い落ちる。土壁から垂れた水が布に染みて、所々の砂を溶かして泥に変えている。
 包みには火打ち石や火種の干し草、鍋や椀や箸もあった。包んでいた布の汚れ具合からすると、少なくとも数年前には置かれていたものだろう。
 誰が何の為にかは知る由もないが、今日だけのつもりで鍋と椀は借りた。
 椀はゴマか砂の色に焼かれ、分厚く、良いものだった。これを使っている者は集落でも裕福な方だ。まず箸とさじの両方が入っている時点で、持ち主は野宿を知らない。
 菱呂は伊由古の手を引き、洞穴を出だ。正面には背の低い草に囲まれた泉がある。
「う……」
 泉の前で、伊由古が少し体をよじった。
 菱呂はそれに気付かず、椀と鍋を泉で洗った。泉の水を椀いっぱいに汲んだ。
「はい、どうぞ。なにか飲んだ方がいいよ」
 伊由古の手を開かせ、自らも手を添えながら、椀を手のひらに乗せた。
 しかし彼女は椀に目を落とした刹那、手から放り投げた。
「うわ!」
 椀は菱呂が支えたが、水は彼の顔面に容赦なくぶちまけられた。
 菱呂は水の冷たさで思い出した。伊由古は白に埋め尽くされた部屋に居たのに、水だけは茶色の椀で飲んでいたのだった。確か「水が見えることが苦手」という理由で。
 情けない。あの小屋を思い出したくないあまり、そんな当たり前のことまで気に出来なかった。確かにこの椀は色が薄いから、水が「見える」だろう。
「ごめん、ごめんよ伊由古。今のは菱呂が悪かったことだよ」
 菱呂が宙をさまよっていた手を握って謝ると、彼女はこちらを向いてくれた。
 そして一呼吸の後、
「ぃああああっ」
 聞いたこともない声、見たこともない顔で伊由古が大袈裟に歪んだ。
 彼女自身すら傷付けそうなほど暴れる腕を、菱呂は急いで抱え込んだ。しかし伊由古は腕を抜こうともがき続け、遂には座り込んでしまう。
「だいじょうぶだよ。おちついて」
 何が起きたのかを見極めたくて、菱呂は片手で彼女の頭を動かし、よく顔をのぞいた。自身も体を少し傾け、ちょうど日差しの下に照らされる。
「うあう、あう、いっ……」
 しかし伊由古は近づいた菱呂から逃れるべく、激しく顔をしかめる。
 長い髪は揺れる内に、伊由古の顔の左半分にかかった。
 それは、いつかどこかで見た「あの人」の姿にとても似ていた。
「……あれ」
 ――作り物の如き美しい面立ちに乗る、どこか滑稽なほど似合わない歪んだ表情。
 ぴちゃっと音がして、菱呂の膝に、顔から垂れた水が落ちた。
 菱呂の顔が塗れていたことまで、「あの時」と何もかもとてもよく似ていた。
「ねえ、伊由古。伊由古は、まぶしかったの?」
 菱呂から逃れて下を向く彼女からは、何の反応もない。
 もう一度、伊由古からは見えないように、菱呂は椀に水を注いだ。白っぽい椀に注がれた水に木漏れ陽を当てる。
 水はやはり金色に輝き、美しく――まぶしい。
「あの時」、今の伊由古と全く同じ表情で、この顔についた水を「まぶしい」と嫌がった人がいた。
「あの人」と伊由古の顔は、とてもよく似ていた。
 同じ表情を作って、その顔が似ていた。
「そっか……伊由古は、まぶしかったんだね」
 菱呂は椀の水を流し、もう一度念入りに肌を拭いてから、伊由古の横に回った。
「ごめんよ。ずっとあんな白い部屋だ、僕の瞳の色だって君は見たことがなかったんだよね。もしかしたら僕の目は、今までちょっとまぶしかったのかもしれないね」
 伊由古が顔に髪をかけたまま、菱呂を見上げた。
『少し、まぶしかっただけなのです』
「あの人」の言葉が聞こえた気がして、
「見慣れない色に、まぶしいものが一緒になったら……目がくらむよね」
 涙を決壊させない自信はもう無かったから、菱呂は伊由古を強く胸に抱いた。

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