菱呂はゆっくり背中を向け、木立を後にした。
木立と里の境目には、美しい色石を二つ置いてある。石のすぐ側には、集められるだけの花の種を寄せて植えた野花の花壇を作った。
色石の一つは菱呂の生母の、もう一つは妹の墓だ。
花壇は、あの里で湖に沈んでいったたくさんの少女達を想うものだ。
骸も髪も衣の切れ端もない墓だが、そんなことはどうでもいい。
ただ、決して忘れないように。全てを想い、抱き続けていくために。
木々を抜けると、日がやわらかく体を照らす。今日も空が全てを懐に抱いている。
里へ戻る途中、見石とすれ違った。たくましい右肩に棒、大きな左肩にかご。林で山菜を採るついでにでも、棒の訓練をしに行くのだろう。
「お、菱呂。明日にでも稽古しないか? 俺の新しい技、見てくれよ」
「うん、わかった。明日ね」、菱呂は今は約束だけをして「楽しみにしてる!」、すれ違いざまに笑みを向けた。
見石も歯を見せてご機嫌に笑っている。
棒に熱心で、たくましい――ただそれだけで素晴らしい、見石という友だった。
伊由古と二人で住む家に菱呂が戻ると、扉の前で伊由古が空高くに両手をかざしていた。
「ひしろ、さまっ。ひしろさまぁ」
菱呂がわざと足音を高く鳴らすと、伊由古は待ち遠しいという笑みで手を振る。
「おかえりなさいませ、ひしろさまっ」
「ただいま、伊由古」
菱呂は伊由古の髪を撫でた。
伊由古は一歩先に扉に入ると、外の菱呂を向いた。
一緒に揺れて回った衣の色は、彼女がもうその色しか着たがらない空の色をしている。
空を宿した瞳を見つめ、伊由古は微笑んだ。
「ひしろさまっ、おかえりなさいませ。いゆこ、まってました」
「ただいま、伊由古。ありがとう」
それは空がどこまでも高く、果てなく晴れた日のことだった。
☆了☆