夕暮れを迎えた家の前には、人の往来が溜まっていた。
周りの人々も菱呂を指差し、いつもの調子とは明らかに違う何かを言っている。
菱呂は人波を避けながら、家の戸を開けた。
「ただいまもどりまし――」
出会い頭に、父に顔を殴られた。
「どこに行っとったんだ、この馬鹿息子めが!」
よろけ、道へ仰向けに倒れた。背中が滑り、土をこする。空のかごが壁に力なくぶつかる。土埃が舞い、周りにいた里人たちが一斉に避けていく。
息子は起き上がって謝ろうとしたが、父はのしかかって襟首を掴んできた。
「祭事家は朝の内に出た、畑にもいねえ、おまけにかごん中はから……働きもしねえでどこほっつき歩いたこの大馬鹿野郎!」
父は顔や胸を容赦なく殴った。菱呂はいつも通り痛がっているふりをしながら、守る手を少しずらす。指の関節の先が頬を切り、拳の根があごにあたる。
人が見ているから。
父の拳は、まだちゃんと効くのだと知らせなければいけない。
人だかりは一様に嫌悪の目をしていた。どちらかを応援も、敵視もしない。汚物が汚物を痛めているだけだと、動いている二つのかたまりをまとめて蔑んでいる。
「……加佐名が子を生んだ」
「え」
「大事な時に、どこ行ってやがったんだ!」
父は最後にもう一発、息子の頬を殴って家に入った。
守りが薄くなっていた菱呂は、その拳をまともにくらった。やはり痛くないが、少しは重かった。
――だから父さんは、怒ってたんだ
菱呂は今までと違う父を見た気がした。
少し胸が浮くものを感じたのも束の間、扉を閉めれば、居間から酒瓶が飛んで来た。
「酒もってこい、酒!」
「でも父さん、今日はもうこれ以上は」
菱呂が働きづめでも裕福でないのは、少しでも余裕があれば片っぱしから酒に替えているからだ。その量は誰よりも働き手本人が知っている。
「父さん、どうして怒るのですか。母上に子が生まれたんですよ。僕の弟か、妹が」
「妹だよ! 加佐名のやつめ、女なんか……女のガキなんざ力は弱い、べちゃべちゃうるさい、てめえの食い扶持も満足に稼げん、なんっにもいいことありゃしねえ!」
父は土間につばを吐き、卓の前にどっと腰を落とした。
「まだ見石んとこより前に生まれりゃ良かったんだ、どうせ女だってんならよ。そうすりゃ霊女さまになれて、こっちゃ育てる手間も省けて有難いこって、みぃーんな上手くいきやがったんだ! ったく、どうしようもねえイモ引いたじゃねえかよ!」
菱呂の、浮かびかけていたような何かが、ずしりと体の奥に落ちて足首を縛った。
二つある部屋の一つ、菱呂が使っている部屋から赤ん坊の泣き声がした。
「うっるせえんだよ!」
父が拳より大きく口を開き、腹の底から怒鳴った。
加佐名の声は聞こえない。
赤ん坊の泣き声は、ますます大きくなる。
「ちっ……」、父は再びつばを吐くと、夫婦の寝室へ入って固く戸を閉ざした。酔いすぎて足取りもおぼつかない父の体は、菱呂の部屋に寝る妻と娘に一瞥もくれなかった。
菱呂はどうしてか体中の力が抜けて、ずるずるとその場に座り込んだ。
赤ん坊の泣き声は聞こえているかいないかで、それよりも、遠くで鳴っている鳥の声が妙に耳に騒ぐ。
いつしか二つは混ざり合い、暗い部屋に鳴き声が回っていく。
重くなっていく壁の色、濃くなっていく影。同じ色に溶け合えば家に夜がやってくる。
体の奥が重かった。邪魔な石が臓腑に落ちているようだった。
だとすればこの身も、この家の片隅の何でもなくどこでもいいような場所にどさりと転がっているものだろうか。
――僕は、どうしてこんなことを考えているんだろう。
ああ、そうだ。こう思えばいいんだ、「仕方ない」。父さんが働き手を求めるのは当然のことなんだ。家族の数が増えたなら、僕が今まで以上によく働けばいいだけだ。父さんに酒を用意できて、母上に楽をさせてあげられて、妹が元気に育ちますように。
それ以外、なんにも考えることなんてないんだよ。
その内に部屋は真っ暗になっていた。
菱呂は明るくするのも億劫で、ずるずると起き上がる。寝室からは父の高いびきが聞こえてくるから、夕食は用意しなくても良いだろう。