気づいたらすばるは、明るい校舎の中を歩いていた。
辺りはすっかり昼間の光りに包まれている。廊下の窓から見下ろすと、校庭では体育の授業が行われている。教室からは授業の様子がもれてくる。
二月下旬の、いつもの学校だった。
さっきまで宇宙空間の校舎にいたはずなのに、ここは地球上だ。
頭に浮かぶのはただそれだけ。
コトリスやナナの姿はもちろん忘れていないけれど、そのことについて何か考えたり感じようという気が起きない。
チャイムが鳴った。すばるは扉についた窓から教室をのぞいた。教室の壁にかかった時計は午後十二時二十分を指している。四時間目が終わり、昼休みに入ったのだ。
扉が開き、数人の生徒が廊下に出てきた。すばるは避ける間もなかったけれど、彼らとはぶつからなかった。
生徒達は次々にすばるの体をすりぬけていったからだ。
「え……」
すばるはぼんやりと自分の体を見下ろした。目には紺色のセーラー服と細っこい脚と、二年生用に先が青くなった上履きが映っている。
首を傾げ、手を前に伸ばし、扉に触れようとした。
でも触れられなかった。
見えない壁があるのではない。すばるの手が霧か雲のように、扉をすり抜けた。
すばるは目を閉じ、また開いた。目の前にある扉の窓ガラスは透明で、鏡となり、辺りの風景を淡く映し出している。
その窓ガラスに映った風景の中に、すばるの姿はどこにもない。
息がかかるくらい窓ガラスの近くにいて、すばるの姿は映らない。
いや、窓に息もかからない。どれだけ息を吸って吐いても、ガラスは露ほども曇らない。
「あ……わたし……」
すばるは驚けなかった。
「それで当たり前」という気がしている。
何かの音が耳の奥で鳴っている。
忘れていたことを思い出そうとしている。
騒がしい休み時間の校舎で、すばるだけが何にも染まらずどこにも溶け込まず、ぼんやりと宙に浮かんでいる中で。
「スターゲイザー」
すばるの口から言葉がこぼれた。
「スターゲイザー。ほしみるひとみ。みつめるひとみ。ひとみるひとみ。ひとみとひとみ。スターゲイザード」
コトリスに何度か聞いても覚えられなかった、星見人の歌だった。
――『スターゲイザードは生まれつきアレコレ知ってるのさ』
彼の言葉が思い出された。
「スターゲイザード」
すばるは、ガラスに映らない自分へと呼んだ。
いつしか息を吸わなくても平気になっている。苦しさなどない。
目を閉じた。
この心が覚えている内で一番古い光景には、一人の少女が宿っている。今から一カ月ほど前のことだ。
一カ月前、『すばるの想い』は宇宙空間に浮かんでいた。
同じ時刻、一人の少女が冬の屋上で夜空を見上げていた。息は白く、頬が真っ赤なのに、コートも着ずにマフラーだけの少女は星を見つめていた。
かたわらには何枚もの白黒写真があった。
もの言わぬ少女の心の声が、確かにすばるの耳に届いた。
『一緒に星を見つめられる友達がいれば……』
少女の声を聞き終わった終わらないかの内に、『すばるの想い』は屋上に立っていた。
『すばるの想い』は女子中学生の姿になり、数百万キロも離れた宇宙から、地球の日本の中学校の午後六時半の屋上に降り立っていた――
今、扉の前に立つすばるは、すっかり思い出している。
それはすばるの正体の物語。
一カ月前、有輝子が夜空を見上げていたこと。
そこには目に映らないほど暗いけど、有輝子が自覚しないままに写真に撮って見つけていた小惑星があったこと。
有輝子に発見されたばかりの小惑星のスターゲイザードが、「一緒に星を見つめられる友達がほしい」という願いを聞いたこと。
だから小惑星のスターゲイザードは地上に降りた。スターゲイザードはスターゲイザーを最優先に考える。叶えられる望みであれば叶えたいと願う。
スターゲイザードは伊庭有輝子の友人になるために、地球にやってきた。
自分が星の想いのカタマリだという事実すら忘れ、本当の中学生の友人になり切った。
白鳥すばるになった。
「わたし、は……」
すばるは脈打たない胸に手を当て、制服の上着を両手で握りしめた。
「わたし、ユキコちゃんのスターゲイザードだったんだ……!」