片足を踏み外したすばるの体はたちまち大きく傾き、斜めになって落ちていこうとする。
八段上から床に落ちたら、痛いでは済まない。
すばるはぎゅっと目をつぶった。遠ざかっていく壁は、せめて見たくもなかった。
そして数秒が経った。
背中への衝撃は、いつまで経ってもやってこなかった。今頃は冷たい床に背中を打ちつけ、手足を方々に投げ出され、いかにもカッコ悪くうずくまっている予定だった。
でも今、体はどこも痛んでいないし、それどころか背中は温かい。
すばるはおそるおそるまぶたを開いた。
目の前にコトリスの顔があった。
「……っ!」
驚いて跳ね上がったすばるの体を、コトリスが慌てて支えた。
「危ない、落ち着いて! また落ちるよっ?」
すばるの吸いこんだ息がそのまま喉の奥に止まった。ゆっくり息を呑みこんでいくのと一緒に自分の体を見回す。 一つ下の階段にコトリスが立ち、両腕をおなかと肩に回して、後ろから抱き止めてくれていたのだ。
「とりあえず、平たいとこに上がろう」
コトリスに手を引かれ、すばるは一階と二階の間の踊り場へ進んだ。コトリスとどう接していいのか、さっきからわからないまま。
それでも今、手が触れられるほど近くにコトリスがいるのが、嬉しい。
もう数えられないほど昔に会ったきりの気すらしていた。
だから余計に胸がつまって頭はぐちゃぐちゃで、何も言葉が出てこない。
とにかくこの場で言うべきことを伝えないといけない。
「あっ……! ぁの、えと、あ、ありがと……助けてくれてっ」
「ああ。一階をぐるぐるしてたからさ、気になってずっと」
「……見てたの?」
「一人で動きたそうだったから……見てるだけにしてた」
コトリスも言葉を選んでいた。お互いにどうしたらいいかわからないのは同じだ。
悪いことをしたのでも、傷つけあったのでもないから、「ありがとう」や「ごめんなさい」というわかりやすい言葉はふさわしくないし頼れない。
「すばるは、何をしていたんだい」
まるで気楽な世間話のフリで、コトリスが話しかけてきた。
「えと、……元の学校に戻る方法を、探してたの」
すばるはきゅっと顔を上げ、数歩離れた先にいるコトリスをまっすぐ見つめた。
「コトリスのために。わたしが戻らないと、コトリスがいなくなっちゃうから」
一番に伝えたい想いを差し出した。
少しの間、コトリスは何も答えなかった。
固い前髪を指の間でかきまわしたり、爪先で床を叩いてみたりしている。
「ボクのためなんていらないんだ。ボクのためにすばるが無理する必要なんかないんだ」
彼は白茶けた石ころを転がすように言った。風が目的地を失ってどこにも流れていけず、吹き溜まっている姿だった。
「おかしくなっている気がするんだ、ボクは。ボクはスターゲイザードだけど、今のボクはソレだけじゃなくなってしまってる。キミと出会って、キミに見つめられて、ボクの知らなかったボクが生まれていくんだ。ボク、生き物でもないクセに」
コトリスの言葉で、すばるの頭の奥に星見人の歌がよみがえっていく。
この瞳でコトリスの星を見出した瞬間から、夜空の彼方にもう一つの瞳が生まれた。一人の少女と、一人の名もなき星の、瞳と瞳が見つめ合っていた。
あらゆるどんな時間も距離も間にはさまった何もかもを越えて。
そして今、すばるとコトリスの二人として、見つめ合っている。
もうお互いに、名前も知らなかった頃の瞳ではないのだと、すばるは感じた。瞳に映っているすばるとコトリスは、一秒ごとに変わっていく。
見つめ合って、全てが生まれていく。
今この時にも。
「キミはボクに、魔法でもかけたのかい。すばる」
コトリスは怯えている様子ですらあった。右腕がゆっくりとすばるへ伸びていく。手のひらは自分に向けたままで、はっきりと手を取ろうという形ではない。
それでもすばるは待った。
二人で手に手を取りたい。
初めて会った時、ふいに抱き止められたり、おでことおでこをこすり合わせた時よりも、今さら手に触れることの方が、はるかにずっと重くてどきどきしている。