午後七時半の地学室は、いつも通りじゃなかった。
すばるは廊下に立って、うすく開けた扉から地学室をのぞいていた。
地学室は放課後、天文部の部室になる。特別教室で机は大きく、左右に一列ずつ並んでいる。室内は電気が消え、壁一面にプラネタリウムの星空が映っている。一番後ろの机にはプラネタリウム投影機が置かれているので、中が夜空になっているのはおかしなことじゃない。
でも今は投影機の所に、ピーターパンみたいな金髪の男の子がいる。
こんな地学室、すばるが天文部に入部してから初めてだった。
すばるは中学二年生の女子で、天文部員だ。公立中学らしく、セーラー服は地味な紺色。黒っぽい髪で、前髪は眉より短いけど後ろはロングヘア。校則は厳しいものの、今は放課後だから髪を結っていなくても叱られない。
部活は午後六時終了が決まりだ。ただし天文部だけは天体観測をするから、特別に午後九時まで活動が許される。だから天文部員じゃない生徒が午後七時半の地学室にいることは普通じゃない。
すばるは金髪の男の子に見覚えがない。ここは自分が天文部代表として声をかけなきゃいけないんだなと覚悟を決め、そろそろと扉を開ける。
「あのー……」
教室に一歩入って、小さく声を出しても、少年はすばるに気づかなかった。彼はちょうどすばるに背中を向けている。
地学室はかなり暗く、すばるは支えを探した。棚に並べられた鉱物標本や、地層の断面模型をよける内に、手が壁のポスターに触れた。宇宙の中で大きな岩の姿をした二つの星がぶつかり合い、火花が散っている絵のポスターだ。
すると、辺りがふわっと光った。
と思ったら、部屋が大きく揺れた。
荒波にさらわれた船さながらに、もう地面そのものが傾き始めた。
地震じゃない。
部屋の中のもの全て、黒板のチョークも教卓の地球儀も、ノリで貼り付いたみたいに全く動かない。奥に立っている少年も、ふらりとも揺れていない。
ただ、すばるだけが動いていた。
「ぅきゃあっ」
部屋は山道のように急こう配で傾いていき、すばるの足は斜めになった床をゆっくり滑っていく。手を伸ばして机にしがみつく。机のふちをストッパーにして体を支える。
その時になってやっと、少年がすばるの方を向いた。
少年は斜めになった教室の中、全身を机に預けたすばるを見ると、目や口を大きくまんまるにあんぐりさせた。
「キミ!」
少年は走り出した。彼は傾きも滑りもせず、やっぱりすばるの水平だけがおかしくなっている。その足は軽く、飛ぶようで、本当にピーターパンみたいだった。
そして少年はこれ以上ないくらいの笑顔で、
「キミが、ボクのっ。『スターゲイザー』なのかっ!」
すばるの元へたどりついて大声を出した。
すばるには今の単語とか、少年が誰とかより、彼が普通に走れたことの方が謎だった。
「あ、あの、この部屋ななめに」
「ナナメだって? そういやキミ、机なんかつかんで……」
少年は辺りを見回すと、さっきよりもっと大きく目と口を開いた。
「ウワっ、ウソだろ!」
叫んだが早いか、彼は壁際に走って行った。速い足が風を切り、窓にかかったカーテンが少し開く。
すばるはカーテンの先、窓の向こうの風景に、目を奪われた。
窓の外には何もない。
本当はあるはずの、見慣れたいつもの町の風景がない。
夜空だけだった。夜空――いや、星空だった。
窓の外一面に、黒い空と星明りだけが広がっている。
少年はあちこちを見回し、全体にまんべんなく星を写した宇宙の写真に手を触れた。
写真を中心にして、部屋にまた光りが広がった。
斜めになっていた部屋がガクンと動いた。傾きがどんどん水平に戻っていく。
机を支えにしたような抑えつけられていたようなすばるは、急に重力の向きが変わって、ジェットコースターで落ちるのと同じ感覚で体がふわっと浮く。
「きゃあっ」