ナナのワガママとか強引な態度への怒りだけではなく、コトリスをないがしろにされたことへの憤りだけでもなく、ただどこへ向けていいかもわからない、果てなくブラックホールにでも落ち続けていくかのような、戸惑いだった。
「わたし、ナナちゃんのものなんて約束してないよぉっ」
すばるはナナを振り払い、自分で自分の体を抱いた。小さな体をもっとずっとうんとすぼめた。倒れて広がっていた脚も、ひざを立てて胴体の方へ引き寄せた。
両手が触れ、両指が押さえるものは、ただごわついたセーラー服の生地だけ。
それ以外は何も触れたくなくて、指の腹を服ごしに腕へ押しつけていた。
初めてすばるに拒絶されたナナは、なおも動揺せずコトリスを見下ろす。
「……あんたが、いけないのね」
でも言い終わった時には、ギンッと眼差しを尖らせていた。
「あんたがすばるを奪った! 許せない!」
ナナはさっきまですばるを求めた手を握りしめ、コトリス目がけて拳を振り上げた。コトリスも片手を前に出して構える。
でも、
「やめてっ!」
コトリスとナナの手と手が痛めつけ合う前に、すばるが間に入った。
ナナはすぐ手をひっこめた。コトリスも構えをゆるくした。
「はあ、はあ……」、ずっと座りこんだままなのに、すばるの息はひどく切れていた。ほどいた手はまたすぐにスカートを握りしめ、やわらかい髪をぱらぱらとたらして、じっと下を向いていた。
細い髪と髪の隙間からナナの姿が見える。ナナはただ突っ立っているけれども、さっきまでとは違う。目も唇も指先も、体中で動く所の全てが細かく震えている。
小さな子を怯えさせたという罪悪感がとっさにすばるを覆う。
すばるはこわごわと、ナナへ手を差し伸べた。
でもナナは一歩後ずさった。
「……っ、うわあああああああああ!」
そして叫び出し、体中の力全てを使って床を蹴り走り出した。
「ナナちゃん!」
すばるは頼りない体を起こし、急いで後を追った。
ナナは三階から一階まで駆け下りていった。一階の廊下に滑りこみ、すぐ右の昇降口にたどりついた。
小さな人影が、下駄箱の間を右に左に行ったり来たりしている。
「待って、お話したいのっ」
すばるが呼びかけても今のナナは答えない。一つの下駄箱の角まで来たら、裏側に回って、また角まで来たらさらに奥に回って、下駄箱の間をぐるぐる回って行く。すばるはなかなか距離が縮められない。
ナナが二年生の下駄箱から、三年生の区画へ差しかかろうという時だった。
いきなり、唐突に、ナナの姿が消えた。
「え……」
後を追っていたすばるは、二つ後ろの下駄箱の前に立ち止った。
ナナはどこかに隠れたり、下駄箱に乗っかっているのでもない。
さっきまで確かにいたのに、吹き消したように何一つ残さずいなくなってしまった。
前へ進めなくなってしまったすばるの後ろから、素早い足音が鳴った。
ふり向くと、コトリスが難しい顔で立っていた。
「っコトリス、ナナちゃん消えちゃって」
「わかってるよ、ボクも見ていた」
コトリスはすばるの言葉をさえぎり、横を追い越し、ナナのいた辺りを一通り調べた。その間、すばるとは全く目も合わさない。
自分がコトリスを怒らせた――すばるには、それだけがわかった。
「えと、コトリス」
「すばるもすばるだよ!」
間髪入れずに、コトリスは声を張り上げた。
「キミは痛いコトされたんだ、ナナちゃんに。ちっちゃい子だって悪いコトしたら怒るのは当たり前じゃないのか、キミのいた場所では!」
コトリスは肩をいからせ、右の拳を握って、左手で右腕をつかんで衝動を抑えている。指が肌にめりこんでいる。 すばるやナナを本当に攻撃したいんじゃない、でもどうしようもないという姿だ。憤るというのは、きっとこういうことだ。
すばるは自分が、こういう姿になったことが、一度もない気がした。
この心でこの体が苦しんだことは、ない。
思い出せない――違う。本当にない。
縛りつけないと飛び出しそうなほどに、怒ったり悲しんだりしたことがない。
そんな気持ちを抱いた時間はすばるの今までに一秒だってなかった。
答えられずにいるすばるに向けて、コトリスはわざと息をはいた。
「キミはさ、ボクがなんでもキミを最優先にするコトが気になってるみたいだけど、ボクはそんなに都合よくできちゃいないよ。いいや、都合よくできてないって、今自分でもわかった。ホントにキミのコトしか考えてなかったらボクは今、キミに怒鳴ってるわけがないんだ。大切なスターゲイザーの、すばるに!」
すばるの体が一回、向かい風にぶつかったように震えた。
今、息がとても心もとなくなっている。ひざがブレて、足までの感覚がなくなっていく。上履きごしに床の感触がわからない。立っている気すらしない。
何も言えなかった。胸が重かった。どこも病気でもないのに、体がおかしかった。
心のために体が痛むのが、今の状態なんだとしたら――やっぱりすばるは今まで、こんな気持ちを知らなかった。
すばるの視界にぼんやり収まるコトリスは、悔しさをこらえるように強く歯噛みした。
「ボクが、すばるに……そんな顔させたいワケが……」
今すばるにわかったのは、今の自分の何もかも全てが、コトリスを苦しめているということだけだった。
だからすばるは走り出した。
背中にいくつもコトリスの声がぶつかったけど、振り返らずに階段を駆け上った。